STORY カラジルーア物語
EPISODE 2
そして、バルセロナへ
日韓W杯でエジミウソンと再会を果たした僕は、大会後もしばらく輝かしい思い出に浸る日々を送っていました。
でも最後にはいつも、その思い出とは対照的な自分の現実に引き戻され、アルバイト生活をいつまで続けていくのか、今後の人生をどうしていくべきなのかといった難問に頭を悩ませていました。
思い出が眩しければ眩しいほど、現実には濃い影を落とすものです。どうするべきか答えが出せないまま、時間だけが無常に過ぎていきました。
そして2年の月日が経った頃、悶々とした思いはようやくある気持ちへと昇華します。
「もう一度、サッカーの世界で自分にできることを探してみたい」
いま思うと至極単純なことですが、当時はなかなか思い切れずにいました。エジミウソンやブラジル代表チームと過ごした時間が濃密すぎて、夢のようで、なかなか自分の日常とリンクしなかったのかもしれません。
その頃、エジミウソンはW杯での活躍が認められ、名門FCバルセロナへ移籍していました。そして、2004年のプレシーズンマッチで日本のクラブと対戦するために再び来日することが決定し、エジミウソンから「この日は空いているから会おう」と連絡がきました。
チームが滞在している都内のホテルで2年ぶりにエジミウソンと会い、お互いの近況について語り合いました。
僕はその時、悩み続けた2年間の思いをエジミウソンに打ち明け、「サッカーに関わる仕事がしたけど、何をすればいいのかわからない」と相談。すると彼は真剣に僕の話に耳を傾けた後、静かに、でも力強くこう言ってくれました。
「サッカーの世界は広い。俺はサッカー界でプレーヤーとして活動しているが、プレーヤー以外にも沢山の仕事がある。お前は15歳で単身ブラジルへ渡ってポルトガル語を習得し、ブラジルサッカー界にも深いつながりがある。この強みを生かすことが一番大事だ。そのきっかけづくりは俺がサポートするから一度バルセロナに来い」
思いがけない誘いに最初は驚きましたが、彼の力強い言葉を聞いているうちに「絶対にバルセロナへ行くべきだ」という気持ちになっていきました。
そして鉄は熱いうちに打てと言わんばかりに、すぐアルバイト先の親方にバルセロナ行きの相談をしに行きました。
日韓W杯の時も急な休暇申請を許してくれた親方です。今回もきっと理解してくれるはず。そう期待しながらバルセロナ行きの話をすると、僕の目をじっと見つめた後に深いため息をついて一言。
「バルセロナの選手のサインをもらってこい」
完全に予想通りの返答だったので、今回もふたつ返事でサインをもらってくる約束をし、僕のバルセロナ行きが決定しました。
契約書の価値とは
2005年10月。
少し準備に手間取りましたが、僕はバルセロナのエル・プラット空港に降り立ちました。
絵の具を塗ったかのように鮮やかな地中海。旧市街地や歴史的建築物を見守るように広がる、たおやかな山々。そして、そこに生きる晴れやかな表情の人々。初めて触れるヨーロッパの開放的な空気は、これからの僕の人生を明るく祝福してくれているかのようでした。
バルセロナ滞在中は、ずっとエジミウソンの自宅に泊まらせてもらい、一日中行動を共にしていました。
まず朝はバルサの本拠地であるカンプ・ノウへ二人で向かい、スタジアム内で朝食を摂ります。隣接する練習場にも連れて行ってもらい、ファンが柵の外からチーム練習を眺めている中、僕だけは関係者席から練習を悠々と眺め、ロナウジーニョやエトー、メッシにデコ、シャビ、イニエスタなど、各国のスーパースターとも交流を深めました。練習後はブラジル人選手と食事に出掛けることも多く、より特別な関係性を築くことができました。
黄金期を迎えたバルサの選手たちと日常生活を共有する毎日。
それはサッカー好きの人間なら誰もが羨む状況であり、普通なら天地がひっくり返っても実現しない贅沢な時間です。10日という期間ではありましたが、世界の超一流を見たことで僕のサッカーに対する意識は大きくアップデートされました。
そして、帰国前日の夜。
バルセロナでの生活をエジミウソンと振り返っていた時、急に彼が変な質問をしてきました。
「ところで、お前には弁護士の知り合いはいるのか?」
「なんで?」と僕が聞き返すと彼はこう答えました。
「これからアジアにおける俺のマネージメント業務は全部お前に委ねたい。そのために契約書を作る必要があるから、すぐ弁護士に作成してもらってほしい」
バルセロナ行きを誘われた時と同じで、突然の申し出に驚かされはしましたが、事業会社を経営している叔父さんからも「今後、エジミウソンクラスの人間と仕事をしたいなら、契約書を交わしておく必要がある」と以前からアドバイスされていたので、すぐ叔父さんに連絡して事情を説明しました。
話を聞いた叔父さんは、「わかった。今から知人の弁護士に作成してもらうから少し時間をくれ」と言って、1時間後には契約書のドラフトをFAXで送ってきてくれました。
ただ、契約書の中身はすべて日本語です。エジミウソンに渡しても読めないので、僕が口頭で内容を説明することに。本来ならあり得ないことですが、これだけでエジミウソンは契約書にササッとサインをしてくれました。
「俺はバルセロナとの契約があと3年残っている。これからの3年間で、この契約書の価値は必ず出てくるはずだ。この契約書を持って日本で頑張れ」
契約書を渡しながらエジミウソンはそう言ってくれましたが、サッカーとアルバイトの経験しかない僕には、この契約書にどういう価値があるのか、正直この時はまだよくわかっていませんでした。
見えはじめた自分の道
帰国後はエジミウソンとの関係を知ってもらうために、片っ端からサッカー関係者にコンタクトを取って方々を駆け回っていました。エジミウソンと交わした契約書片手に色々な人と会いましたが、ほとんどの人は半信半疑で話を聞くだけ。ブラジル留学時代からの友人だということがわかると、少し関心を持ってくれる人もいましたが、なかなか成果には結びつきませんでした。
ようやく営業活動が実を結んだのが、2006年5月のこと。NTTぷららの役員の方が「面白そうだからインタビューを撮影してきてくれ」と依頼をくれたのです。当時、NTTぷららは「4th MEDIA」という映像配信サービスを展開していて、サッカー番組も配信していました。ドイツW杯が近かったこともあり、エジミウソンとデコの独占インタビューを撮影できるなら予算は1000万円つけると言われました。
1000万円……。
毎日、彼らと他愛のない会話をしていた僕にとって、彼らにインタビューするだけで1000万円ものビジネスになるとは想像もつきませんでした。僕はすぐにエジミウソンとデコのスケジュールを調整し、カメラクルーを連れて再びバルセロナへと飛び立ちました。
当初の予定では練習後カンプ・ノウで撮影することになっていましたが、僕がインタビューするなら堅苦しいのは抜きにして家で撮影しようということになりました。同行したクルーは、「まさか自宅にお邪魔してプライベート映像を撮れるなんて!」と驚きを隠せない様子でしたね。
確かに正規ルートなら撮影場所も時間も制限されてしまいますが、アミーゴの撮影なので場所は自宅で、時間は無制限。しまいには、エジミウソンとウイニングイレブンで対戦しはじめる始末です。
おかげで、どこにもないプライベート感満載のインタビュー動画を撮ることができ、僕のサッカー関連の初仕事は無事に幕を下ろしました。
この仕事に対する評価はかなり高く、そこからはイケイケで営業を展開。その結果、ブラジル代表カカーとSONYのグローバルアンバサダー契約や、BS朝日「S -THE STORIES-」でのメッシのインタビュー撮影、TBS「炎の体育会TV」でのネイマールのキャスティングなど、次々と新しい仕事が舞い込んでくるようになりました。
将来に悩んでいた頃が嘘のように、キャスティングという光が僕の人生を照らしはじめたのです。
でも、決して忘れてはいけないのが、すべてはあの日エジミウソンが交わしてくれた契約書のおかげだということ。僕は彼の慧眼に感服しつつ、あの契約書にサインしてくれたことに対して今でも感謝しています。