STORY カラジルーア物語

EPISODE 1

エジミウソンファンズ・アジア代表理事の
林善徹とエジミウソンの
出会いから
団体設立までの物語をご紹介します。

最高の友人との出会い

1992年のブラジル・サンパウロ州郊外。
田舎町のジャウーを本拠地にしている「キンゼ・デ・ジャウー」というサッカーチームで、僕とエジミウソンは出会いました。
キンゼ・デ・ジャウーは、キングカズこと三浦知良さんもかつて所属していた素晴らしいチームです。僕とエジミウソンはここの下部組織に所属し、レギュラー獲得やトップチームへの昇格を目指して、土にまみれる日々を送っていました。

中学を卒業してすぐにブラジルへサッカー留学に来ていた僕は、当時まだ15歳。ハイレベルなブラジルサッカーに心を折られ、精神的にもかなりきつかった時期です。そんな僕を支えてくれたのがエジミウソンでした。
同い年だったこともあり、僕たちはすぐに意気投合しました。エジミウソンがポルトガル語を教えてくれたり、夜間練習の相手になってくれたり、休みの日には一緒に出掛けたり。彼の実家にも何度か招待してもらい、父親が働いているオレンジ畑へ遊びに行ってオレンジを収穫したこともあります。

僕に「カラジルーア」というニックネームを付けてくれたのもエジミウソンです。カラジルーアとは「三日月の顔」という意味で、ガリガリだった僕の頬が三日月のような形に痩せこけていたことから、このニックネームを付けてくれたようです。練習でも私生活でも沢山の時間を共に過ごし、いつも明るく屈託のない笑顔で接してくれるエジミウソンは、異国の地でサッカーを続ける僕にとって心強い最高の友人でした。

そんなある日のこと。
いつも明るいエジミウソンが、とても深刻な顔をして僕の寮の部屋に入ってきたことがありました。彼のこんな顔は見たことがなかったので、恐る恐る何があったのかを訊ねてみると、彼はこう言ったのです。
「家族の生活を支えるためにサッカーを辞めて働くことになるかもしれない」
彼は両親と兄と妹の5人家族で、父親とお兄さんが家計を養っていましたが、やはり生活は厳しかったそうです。
僕は実家から仕送りをもらっていたのですが、食事は寮で食べられましたし、特にお金の使い道もなかったので、その時持っていた300ドルを迷わず彼に手渡しました。当時のブラジルは、300ドルあれば4か月くらいは生活できた時代です。そのお金で何とかエジミウソンがサッカーを続けられる、当座の環境は整えることができました。

エジミウソンに訪れた転機

それから数か月が経ったある日、ジャウーの町のイベントで名門サンパウロFCとキンゼ・デ・ジャウーの親善試合が行われました。
サンパウロFCといえば、名将テレサンターナ監督や現役ブラジル代表選手が何人も在籍している超一流のビッグクラブ。もちろん観客席は満員で、町中がサンパウロFCとの試合に色めきたっていました。
ジャウーの選手たちも目の色を変え、いつも以上に気迫をみなぎらせていました。この試合で活躍すれば、名門サンパウロFCから引き抜きがあるかもしれないからです。ブラジルには、エジミウソンのように決して裕福とは言えはない家庭を背負ってサッカーをしている選手が沢山います。だから彼らは常に真剣で、常にハングリーで、常に上をめざしているのです。

通常ならトップチームのレギュラー組だけが出場するような試合ですが、今回は親善試合。トップチームと下部組織の混合チームが編成されることになり、何とエジミウソンもそのメンバーに大抜擢されました。

期待と興奮と緊張が渦巻く競技場に、試合開始を告げるホイッスルが鳴り響きました。
試合序盤から激しく交錯する選手たち。このチャンスを是が非でもモノにしたい選手たちの思いまでもが、激しくぶつかり合っているかのような試合でした。
「この大舞台で活躍できれば、彼の未来はきっと開けるはずだ」
スタンドで観戦していた僕は手に汗を握りながら、スタメン出場していたエジミウソンの活躍を祈っていました。

スタンドにいるだけでも大舞台の空気に飲み込まれそうなのに、エジミウソンは堂々たるプレーを披露し、緊張して試合を見守る僕の目の前で名門サンパウロFCを相手に安定したパフォーマンスを発揮しました。試合終了後、名将テレサンターナからお呼びが掛かり、エジミウソンはそのままサンパウロFCの選手たちと同じバスに乗って、セレクションも兼ねた練習へ向かうことに。そして、そのチャンスを見事モノにしたエジミウソンは、サンパウロFCとの契約を勝ち取ってキンゼ・デ・ジャウーから移籍していったのでした。
エジミウソンと出会ってから2年後の 1994年の出来事でした。

思いがけない電話

それからの彼の活躍は素晴らしいものでした。
各世代のブラジル代表に選ばれ、サンパウロFCではキャプテンを務め、その活躍が認められてフランスの名門オリンピック・リヨンへの移籍も果たしました。スターへの階段をのぼっていくエジミウソン。僕が日本へ帰国する1998年までの間、電話で連絡を取り合う仲は続いていましたが、会う機会は減り、どんどん遠い存在になっていくような感覚がありました。

一方の僕は、日本に帰国した後、川崎フロンターレに入団しましたが1年で戦力外に。ここが潮時だと判断し、プロサッカー選手の道を諦めて、建設業のアルバイトで生計を立てる日々を送っていました。サッカーの道を諦めたといっても、将来の方向性が定まっているわけではなく、今後の道もはっきりしない。そんなモヤモヤとした思いを抱えていた時に開催されたのが、2002年の日韓W杯です。

この頃、エジミウソンとの連絡は途絶えていましたが、彼の動向はサッカー雑誌などでチェックしていました。だから、彼が日韓W杯のメンバーに選出されていることも知っていましたし、もし機会があれば会いたいなとも思っていました。でも、残念ながらブラジル代表の予選会場はすべて韓国。画面越しにエジミウソンを見守るだけでしたが、彼はレギュラーとして大活躍し、予選リーグ突破に大きく貢献しました。

そして、ブラジル代表が無事に予選突破を決めた日。僕の携帯電話に知らない番号から着信がありました。
誰だろうと思いながら電話に出てみると、懐かしく聞き覚えのある声で一言。
「カラジルーア!」
そう言われた瞬間、一気に時間が巻き戻され、ブラジル時代の懐かしい気持ちが込み上げてきて、すぐにエジミウソンからだと気がつきました。
「なんで俺の番号を知っているの?」
「お前の番号くらい簡単に調べられるほど世界中にアミーゴがいるんだよ!」
驚きと嬉しさが入り混じり、現実に頭が追いつかないでいる僕に、エジミウソンはこう続けました。
「決勝トーナメントの会場はすべて日本のスタジアムだ。一回戦は神戸だから、神戸で会おう。チケットはこっちで手配するから」
こんな機会は二度とない。そう思った僕は喜び勇んでアルバイト先の親方に事情を説明し、休暇を取らせてほしいとお願いすると、サッカー経験者である親方は理解を示してくれました。ただ、ひとつだけ条件があると言うのです。その深刻な表情に不安を感じながら、僕は親方の言葉を待ちました。
「お前が休む分、誰かがその穴を埋めないといけない。その穴は俺が埋める。埋めはするが、その代わりに、ブラジル代表全員のサインをブラジル代表ユニフォームに書いてもらってきてくれ」
この要求を秒で受け入れた僕は、無事に休みをもらい神奈川から神戸へと向かったのでした。

カラジルーアの300ドル

ブラジル代表が宿泊している神戸のホテルで、僕たちは約5年ぶりの再会を果たすことができました。
ホテルの部屋で身の上話をしながら旧交を温めた後、彼は他のブラジル代表選手の部屋を順番に案内してくれて、全員に「俺の親友のハヤーシだ」と紹介していってくれたのです。
「こいつが俺を救ってくれたんだ」と。
ロナウドやロナウジーニョ、ロベカルにカフー、カカー……。
そんな大スターたちが「エジミウソンの親友なら俺たちのアミーゴだ」と僕を快く迎え入れてくれました。
「なんて素晴らしい人たちなんだ!」
一流の選手は、みんな人間性も一流だと心から思った瞬間でした。

林(左)、エジミウソン(真ん中)、シルビィーニョ(右、元ブラジル代表選手)
林(左)、エジミウソン(真ん中)、
シルビィーニョ(右、元ブラジル代表選手)

しかも、親方から頼まれたサインを速攻で貰えただけでなく、ブラジル代表の全試合のチケットをエジミウソンが手配してくれたので、スタジアムでブラジル代表の全試合を観戦することもできました。この大会でブラジル代表は見事優勝を果たしたので、W杯が終わるまでの間、ブラジル代表が滞在しているホテルでエジミウソンと多くの時間を過ごし、ブラジル代表選手とも親交を深めることができました。この夢のような時間はあっという間に終わってしまいましたが、この時ほどブラジル留学でポルトガル語を習得していて良かったと思ったことはありません。

ブラジル代表が優勝した夜は、まさにお祭り騒ぎ。都内で盛大な祝勝会が行われ、ほぼ全選手がこの祝勝会に参加していました。そんな中、エジミウソンがおかしなことを言い出しました。祝勝会には参加せず、僕の実家へ行きたいと言うのです。
「W杯優勝の祝勝会を断ってまでうちへ来たいって、どういうことなんだろう」
そう疑問に思いつつも、夜中に実家へ行くわけにもいかないので朝になってから車を走らせ、7時頃に川崎の実家へ到着しました。そして、朝食を準備して待っていてくれた母と対面するなり、エジミウソンは僕に通訳を頼んできました。挨拶するくらいだろうと思って気軽に承諾したのですが、彼が話しはじめた言葉を聞いて、僕は込み上げてくる涙を堪えるのに必死で、しばらく通訳ができませんでした。

「お母さんに会えて嬉しく思います。直接私の言葉でお母さんに伝えたいことがあります。林は僕の大親友であり恩人です。彼は私が人生で辛い時期を過ごした時に僕を救ってくれました。この言葉をお母さんに直接伝えたかった」

僕はこの言葉を聞いて、あの時の300ドルをずっと感謝してくれていたことや、それをわざわざ伝えるために祝勝会を断って実家まで来てくれたことを知り、彼の人間性の素晴らしさに心の底から感動しました。その後、実家の小さなテーブルを三人で囲み、白ごはんと焼き魚に味噌汁という純和風の朝食を一緒に食べてから、その日の夕方にブラジルへ発つというエジミウソンをホテルまで送っていきました。

親友との再会、W杯の観戦、ブラジル代表やエジミウソンと過ごした時間。
そのどれもが素晴らしい出来事でしたが、エジミウソンが実家に来て話してくれた言葉ほど、一生心に残るものはありませんでした。